どこにいても人間は孤独

 

 

ゆるやかに解放されていってる

 

 

 

京都駅に降りた時ただいまって大声で言いたくなった。ホームシックだったので。まだ3ヶ月しか経っていないけど、ホームシックって大抵その場所を離れてから時間が経っていなければいないほど重篤なものになりやすいものだと思う。ホームシックほとんど経験したことないけど。

 

そういう気持ちだったので、京都駅にいるクソ観光客に何も感じることなく歩けたし、市バスが来なくて来ても人多すぎでしかもクソ時間かかってもまあこんなもんだよなって思えたし、ホテルのフロントの人の感じが悪くても別にいっかってなった。優しい気持ちで生きていくといいことがたくさんあると思う。

 

もちろん、非日常だったので、一切時間気にしなくてよかったというのはデカい。

 

ホテルで水垢の付いてそうなグラスで泡だらけのビールを呑んで、シャワーとトイレの場所を確認して、香水をつけ直したりした。安くて新しいカプセルホテルだったのでそういうビールでも許せたけど、あるなら呑もうっていうの貧乏性出たなって感じでちょっと恥ずかしかった。そういうことを思うのをやめていったほうがカッコいいぞ。

 

 

 

餃子を食わずに焼き鳥を食った。造りがうますぎる。なまものが好きすぎる。実家に帰ってすぐ夜中なのに馬刺しと刺身を食べてしまうくらい好き。毎日刺身食べたい。でも餃子も好きです。次は餃子と親子丼を絶対に食べたいしできればホットケーキも食べたい。

というか白梅町周辺にこんなにも思い入れるとは思わなかった。京都っぽくないし。まあ京都だけど、自分がその辺出歩いてるだけで自分のイメージが形成されてしまうの、普通だろうけど気に入らないといえば気に入らない。でもガイドブック通りに好きになるのも気に入らないし、通ぶってんのも気に入らない。

潔く初心者をやっていくのがカッコいいと思う。串八も絶対行きたい。

 

焼き鳥屋の大将自分のこと覚えててくれたしサービスしてくれてありがたかった。東京でこういうの全然ない気がするし、地元は覚えてくれていたとしても心地いいサービスって全然ないと思う。そもそも呑み屋全然ないけど。

田舎の若者ってどこで誰と酒を呑んだりするんだろう、ずっとその場所にいるなら何も思わずに済むだろうけど、私からするとなんて可哀想なんだろうという気になってしまう。余計な世話を焼いてしまった。

京都が好きなので完全に贔屓しています。

 

人に会った。髪を切って若返っていた。ターボライターがぽくないと言われた。はい。機嫌がよかった気がした、思い込みたいだけかもしれない。

あの人は徳でやっていっている人だと思う。でも社会でいい感じにやっていけている人は徳がある気もするので、徳があればそれでいいのかもしれない。たとえ徳だけで生きていても非難するようなことは何もないだろう。

 

 

 

京都にわざわざ行って髪を切った。今までやってもらってためっちゃタイプだったお姉さんがいなくなってしまったためにスパとトリートメントただだった。美容院で最後にスタイリングしてくれるけど、新しいお姉さんあんま趣味よくねえなと思った。前のお姉さんがいいよう。

月1で美容院行って髪を整えたりトリートメントをしたりしたほうがいいらしい。世の中の人は本当にそんな頻度で美容院に通っているんだろうか。金があり顔がいい人は月1美容院でどんどんよくなっていくんだろうけど私は年3回くらいでいいや、のばしてるし。

 

嬢に会った。キャバ嬢の友達とかではないです。「とか」の使い方ものすごくガバガバな気がしてきた。あの人はバリバリのキャリアウーマンになるだろうなと思った。カラースーツとかも似合うだろう。

仲のいい人に、この間柄は混迷していると言われたらしい。情事ではなく。変なの。そういう混迷を私はもしかしたら誰とも持ったことがないんじゃないかなと考えながら聞いていたけど、まずそれ本当に情事じゃないんか?と思っちゃったしそういうとこが性質を表してんだよな。

男がいないと生きていけないタイプの人間。はい。

矛盾許容論理の人なので様々な矛盾する気持ちをたくさん持っているよ。

 

こないだ私がメンヘラみたいなことを言っていたときにちょっと喧嘩みたいのしたんだけど、その弁明みたいなのをした。論理的に整合性がなかったけどそのせいではなく、全然頷けないっていう顔をしながら終始話を聞いてくれていた。20年後に人々と再会するのがすごく嫌。

20年間の、その人が積み重ねてきたものや、その人に積み重なってきたものを目の当たりにするのは耐えられない。

 

姉妹というのは本当に難しいし、自分のあらゆるところに浸透しているんだなと思った。ああ自分は長女なんだ、と思った。2番目は一番下の気持ちも一番上の気持ちも分かるし、見ているだけなんだなと思ったし、一番下は、分かってるし穏便なんだろう。何もわかっていなくても傲慢で、それでも私のまわりがうまく回っているのは、2番目や一番下の人々が鋭利に刺してきたり柔和さを望んだりしてくれることに依っているんだな。

 

われわれの持つ、何か、例えば空気の質感とか、空の色と感情とか、痛覚と生きている心地とか赤の他人の言動とか、生命あるもの全般とか(動物や魚や人間をキモいと思ってはいるけど多分それとは違う話)、そういうものへの慈しみや感受性は、多分田舎特有のものなんやろう、という話をした。多分そうなんだろうと思う。悪い人間が本当にいるというの、私には衝撃的すぎる。

晴耕雨読という言葉はとても都会的な感じがするのよね。

 

もらった本の主人公、私は昔ああいう人が好きだったかもしれないけど、今はなんか違和感を感じてしまった。私が擦れているだけかもしれない。

 

 

 

古本市に行った。夏だった。京都にいると夏ってだけでいつでも泣きたくなるしめちゃくちゃなはっちゃけ方したくなる、京都はすごい。多分我に返る瞬間が多くありすぎるからだと思う。

人に会った。どうするのが最善だったか全然分からなかった、あーーー人!!!嫌だと思われたくない気だけはあったけど正直関心を示す態度としては全然なってなかったと思う。おかしい。

遠いなと思った。嬉しかったけど。すみません。

 

今の気持ちはこんな感じ(「虚無なんです」、って言った)なんですけど何かカクテル下さい、って言ったら、深泥池色のカクテルを作ってくれた。そんな色なわけないだろ。

言語化するのは難儀だし、いつも温度で理解してほしいと思ってしまう。なんでこんな風に思うようになってしまったんや。はーーー。おいしかったからいいけど。

ちなみに嬢には分かるが他の人には正しく伝わらないだろう話をしています。

 

3軒目で騒いでいたら朝になってた。空を見て綺麗だとか思えばよかった。

 

 

 

寝坊してチェックアウトの時間に間に合うわけもなく、結局千円払うことになってしまった。こんなことならもっとただでビール呑んでおくべきだった。

外国人の香水がくさかったし、ラーメンとか酒とか睡眠時間とかで吐きそうだったし、香水はつけなかった。

 

曇りの日って変に眩しい日が多いと思う。体内の何かが溶け出しているなあという気分を作り出しながら、木屋町先斗町河原町を四条から三条まで行ったり来たりした。

そういえば新月の夜も明るいんですよ。

 

人と会った。ぎこちない雰囲気の中で少しずつ不和を積もらせながら本屋に行ったりコーヒーを飲んだりした。今後もうまくはいかないと思う。世の中はそういうもんだと思う。

人に対しての気遣いをする、それ以上でもそれ以下でもない。安全でもあり適切でもある範囲内での言動。

 

 

 

観察力がものすごく衰えている気がする。

というかとにかく浮ついていて自意識にしか興味を持っていなかった。恋とかしていた頃はあんなに、本当に瑣末なことにさえも気がついて一喜一憂していたのに。言葉遣いの違い、歩く速度の違い、筋肉の変化、選ぶ表情の変化、気遣いの仕方、ものすごく曖昧なものすべて、気づいていたというか深読みしていただけかもしれないけど、とにかくそういうの全部が気になって仕方なかったのに。

最近批評家みたいな観点になっている。恋していけよ、時代は愛だぞ!!!

好意を持っていると思っているつもりの人に対して、自分のことをなんて呼んでいたかとか、いつどんな表情をしてこういう気の遣い方をする人なんだなとか感じて、そういうのを何も気にすることができていなくてめちゃくちゃ後悔してるし反省もしてる。

 

恋すると普段と言葉遣いが違うなとかこの人の中に何か新しいものが入ってきたんだなとか気づくので、学術書もそんな風に読めばかなりいいことが起こると思う。フッサールを読みながら、この言葉この前と違うけどなんでそういう風になったんだろうとか、この概念を持ち出すときに前だったらこんな気持ちの顔してたのになんで今はこんな風に使うのとか、これ実は暗にあの人のこと言ってるんじゃないのとか、そういうの恋したら絶対気がつけると思う。

魅力的な哲学者いたら紹介してください、イケメンがいいです。

 

 

 

ゆるやかに解放されていってる

確かにそう思う。人から。土地から。

興味を失っているのでもあり、ちゃんと慣れていっているのでもあり、確かに人間への感情を持たなくて済むようになっていっているということでもある。

 

これでいいんや、と思わずにいられないこともあるし、これでいいんや、と思うのにひどく苦労することもある。

 

まあ、ふつうだろうけど

 

本当にもう夏は終わるんだろうか、夏は短すぎる。

京都よかったなあ。特に天気。