仕方のないことが多すぎるということについて、われわれは何をどう引き受けるべきなのか

 

 

 

最近洗面台に立って老けたなと思うことが増えた。

煙草のせいや精神のせいだけではなくて、本当に老けたんだと思う。

東京で電車に乗って、切ない気持ちになってふと前を見た時に、車窓に反射する自分の顔が思い通りでないことに少しだけ絶望し、イライラする。

東京は憧れる街でしかない。憧れは幻滅するものだ。

東京の電車に乗って、座っている人が席を立った時に隣の人がはじに寄る制度を初めて目にしたのだけど、今も彼らのやっていることの意味が全然分からない。別にそこに座ったならそのままでいいじゃないか、人間たちは何を気にしているのか。

「はじ」っていうのは漢字変換できると思ったらできなかったので、標準語では「はし」なのだろう、私は田舎者だ。

 

この前母が東京に来て、一緒に銀座に行ったりした。私は今も関東のことを東京だと思っている。大学受験の時になってさえ、私は西日本全てを関西だと言い続けていた。当時高校時代の友人たちにその話をしたけれど、された人々が覚えていそうにはない。私はかなり記憶力がある方だと思う、ワーキングメモリはない。

 

 銀座の本屋に行って、有楽町のカフェにモンブランを食べに行ったのだけど、そのモンブランは全然美味しくなかった。

昔母が祖母と一緒に食べたモンブランで、それは祖母にもっと大きいのを食べれたと言わしめたらしい。その日は祖母の誕生日だか命日だかだったらしいけれど、私はそのことを全然知っていなかったし、それを聞いたあとにモンブランを食べたせいで、感受性を倍増させることになった。

甘すぎたし、栗はのっていなかったし、ラム酒が効いていなかったし、メレンゲがくどかったし、多分作ってからかなり時間が経っていた。

30年前の味がそのままだなんてことはそうそうないだろうけど、夫がそれなりのところに勤めていて子供を迎えに行くまでのあいだ暇を持て余した主婦が社会適合者として話をしたり、若者が付き合って2.3ヶ月のあいだにデートしたりするには、かなり感じのいいカフェだったので、それが私には不満だったし、母も妹もきっとすこしかなしかっただろうと思う。

 

こないだ祖父の命日で、私は妹に言われるまで全然思い出しもしていなくて、これが私と妹の差だよと思った。これは母方の祖父の話だけど、私は父方の祖父の命日も祖母の命日も覚えていないし、覚えていたとしてもきっと何も考えたり思ったりしなかっただろう。母方の祖父のことが私は大好きだったし尊敬していたし、ときたま祖父の書いたものを読んだりして号泣したりすることがあるけれど、そういうのを私は一瞬で忘れてしまう。本当に、洗濯物を干したりしているあいだに泣いていたことを忘れてしまって、なんか鼻が変だなと思ったらさっき泣いたんだった、と思い出すくらいで。これが妹との差だよ。

 

わたしはこの歳にしてはわりと沢山葬式に出ている方だと思うけど、ほとんど何も覚えていない。最近葬式とか法事とかに出て、なんかそれっぽかったりカッコよさそうだったりするようなことを毎度考えるけど、そういうのはなんか自分が理性しか持っていないみたいで嫌になって、そのあと変に洗い物をしたりとかしてしまう。

 

人が死ぬことの何が私はかなしいんだろう。

死にたいと私に言った人に対して、昔は死なないでと言っていたけど、今は何も言わない。私に何か言う権利があるだろうか、ないだろう(反語)

でも人が死んでいくのはかなしいと思う。でも、それは仕方のないことだ。そこから何か引き出せることは何もなくて、だから生きている人は頑張ろうとかは言いたい人が言えばいいし、悲しい人は悲しめばいいし、無関係な人は無関係に生きていけばいいし、無関係な人が責任を感じたり感情を抱いたりしても別にそれは構わないことだと思う。そういうことを考える権利さえ、もしかしたらないかもしれない。

 

最近「亡くなる」という表現をしたくなくなった。なんか感情を無理矢理込めすぎているような気がして私はもう使えない。葬式で丁寧にしなければならない時でさえ、きっと私はそういう言葉遣いをできないだろうと思う。でもそれ以上に何か必要なんだろうか、死は、人間でも虫でも関係性みたいなものでも、事実でしかないと思う。

 

私がこないだ死にたいと言ってた時、友人たちに甘えだとかそれは違うやろとかフェイク野郎とか色々言われたんだけど、もう何が何だか分からない。言われた時はそれなりに精神にも身体にもこたえたけれど、今は世界が、あらゆることが遠すぎて、マジで何も分からないし。

タバコをやめろと言う時の理由と死ぬなと言う時の理由は同じようなもんだと思う。タバコをやめる理由、「臭いから無理」ということなら分かるけど、私のことを考えてやめろって言うやつはよく分からん。あまりロジカルではないと思うし、これをロジカルに言うことはできなさそう。普遍的に妥当するものではないから。それは自殺にも言えると思う。自分の気持ち以外に、人に個人的に何か言えることがあるだろうか。

 

 

最近マジで人間の考えていることが分からない。

金持ちはいきなり3万とかくれるし、クソ高そうなホテルを予約してくれたりするけど、人間にも金にも性にも関心がないので、笑って意味が分からないと言われる。この前「見た目は貧相だけど顔が明るいから一貫性がない」って言われて、自分では太っており顔は暗いと思っていたので痩せて暗くなろうと思った。何って、私は人と話す時顔が明るくなるんだろうしコミュニケイションもまあまあできるので、普通気味悪がられるようなことでも、笑って意味が分からないと言われるに止まるということ。こういうのを私はやめたいと言っている。

 

痩せたいけど全然痩せない、京都に行くまでに40キロになってほしい。もちろん可能的な世界ではある。死ぬ気でやれ。

 

京都にお盆前に行くけど宿がないので宿を提供してくださる方は言ってください。見苦しくないくらいには痩せたいと思っている。オフパコみたいなことはできないのでそういうのは無理だ。そういうのってなんかいいんですか?性をやっている人は何をやっているんだ、金があり性をやっている人の人生の意味はなんなんですか、教えてくれ。

 

というか、それまでかなり仲がよかったのにセックスしたら関係が微妙になって疎遠になってしまう、みたいなの、小説の中であったとしても高校生くらいまででしょ世の中もっとクソ適当に回ってるかと思ってたよ。世の中がどうでもよすぎる。江國香織の小説に出てきた、リスカ入水自殺した少女になりたい。彼女は美しい少女だった。はたからみて無に見える人が、本当はどうなのかとか、分からないですよね。

 

自分は別に高級で美味しい料理を昔から食べていたわけではないけど、結構舌が肥えてるらしくて、1万8千円の割烹を食っても全然美味しいと思わなかった。普通にぼったくられてるだけかもしれない。食事以外にデートの誘い方を知らない人間が社会を回している。それは間違いないと思う。私は食事をしたくないんだ。

  

明日は妹が吹奏楽のコンクールで、そのために地元に帰ってるんだけど、青春を閉じ込めた薬を飲んで自殺したい。私は今色々なものをもっていて、素晴らしい環境で自由にやらせてもらってることは間違いないのだけど、たまに何ももっていないし全て投げ捨てたくなる。人生はそういうものだと思うので、その乗り越え方を知りたい。

 

別に今はつらくないので、これからも元気にやっていくし、普通に来週は激頑張り屋さんになるよ。

 

最近世界が予定調和なんだと思うことが増えて、それでも私が何かできるとしたら、人に優しく誠実に接する以外にないんだなと思うことが増えてきた。歳をとったんだと思うけど、そのうちまたイライラしたら人に当たったりすると思う。早寝早起き朝ごはんラジオ体操していくぞ。あと、寝る前には小説でなくカントを読むべきだよ。